愛という名の支配

感覚は理性を駆逐する。憎悪は執念へと昇華する。

AとBが殴り合いの喧嘩をしている場合の質問です。

 最初は状態が均衡していたものの、徐々に実力差が明確になり、AがBに一方的にボコられる様相を呈してきました。
そこで『このままではAは死ぬな…』と勝手に判断した傍観者Cが「助太刀いたす!諸君、警察を呼ぶ必要はないぞ。私に任せておけぃ!」などとわざわざ時代劇風に周囲に自分の正当性を高らかにアピールしてから戦闘に参加し、Bを駆逐、叩きのめしました。

 その後、CはAに「あのままだったらおぬしは命を落としておったぞ。私に感謝するがよい」などと相変わらずの口調で自身の行動を自画自賛し、そのうえ助太刀料金5万を要求し、なかば強引にAの財布から札を抜き取っていきました。勝手に金をとられたことにムカついたAは密かに携帯で撮影しておいたBとCの乱闘の様子を『時代錯誤の馬鹿大暴れ』と銘打ってネットに流してほくそ笑みました。

 …それから数日後、Aの自宅に警官数名が訪れ、BがCの殴打により死亡したのであなたも関係者として取り調べを受けて頂く。なお、Cは現在逃走中なのでCが捕まるまであなたの身柄を拘束すると言われ逮捕されました。


 さて、この場合あなたがAだったらどうしますか?
下手をしたらあなたも傷害致死の共犯にされかねません。

心理描写の天才、三島由紀夫の小説で最も笑える作品とその描写はどこでしょうか?

 そもそも、普遍的に笑えるのかという疑問は残りますが、私は彼の小説を読むとたいてい大笑いしてしまうんです。皆様はいかがでしょうか?

以下、個人的に爆笑必至のシーンです。
①『金閣寺』において、遊郭で女を買った老師が弟子である吃り主人公溝口に街で偶然遭遇した際「ワシの後を尾けてくる気か!?」と激昂し立ち去るも、その翌日何食わぬ顔で住職業務を遂行。溝口はその様子に腹を立て、老師が買った娼婦のエロ写真を老師が毎日読む新聞に添付して暗に非難。それでも老師は平静を装うが、ある日、本尊に向かってずっと土下座している老師を発見。だがそれは神仏に許しを乞うているのではなく、溝口に誠意を見せるための必死の謝罪アピールであった。その無様な様をみて溝口が心の中で発した一言『小者だ…』

②『天人五衰』において、かつて恋人に自分の容姿をこっぴどく嘲られたがために自分のことを絶世の美少女だと思い込むことでかろうじて自意識を保っている稀代の不美人狂女、絹江。自分の容姿を否定しない唯一の男子である主人公、透に好き放題現実で受けたストレスやダメージを改竄して喋りまくる。たとえば『アタシほどの美人はいない』『男はいつもアタシを犯そうと狙っている』『美人は男の獣じみた性欲に常に晒されていなければならないので、宿命的な不幸を背負っている』などといって、主人公がちょっと近寄っただけで犯されると叫ぶ。それも終始美人がして初めて様になるような優雅な振る舞いを実践(ハンカチを口に当てて笑ったり、花を頭に指したり)。

③『命売ります』のラストにおいて、統合失調症の末期症状に陥り、街中の人間が自分を監視し殺そうと目論んでいる、という妄想に襲われ、交番に駆け込む主人公、羽仁男。警官に熱心に自身がそれまでに体験した九死に一生ストーリーを語るも、一切相手にされず、「よくいるんだよ、ただ甘えてるだけなのに自分が一番不幸だと思ってる人間のクズが」みたいなことを言われ追い出される。本気で命の危機を感じている羽仁男は、がくがく震えながらも少しでも落ち着こうと煙草を吸いながら夜空を見上げる。しかし、不安・恐怖・絶望からとめどなく溢れる涙で星が霞んで見えるのだった。

④『女神』にて、女性美に異常に執着する主人公周伍は妻である依子を完全に所有していた。食事、運動、服装の徹底管理はもちろん、毎日一緒に入浴し、頭の先からつま先までまるで愛車を洗車するがごとく丹念に磨き上げる始末だった。それだけではない。話し方から性の作法まで何から何まで彼は理想の女性を追い求め、愛する女を美の化身にすることが生きがいであったのだ。そのためならどんな手段や手間も惜しまない。…だが、空襲によって妻の美が崩れるとあっけなく妻に対する関心をなくし、娘にその情熱を注ぐようになる。


 まだ他にもたくさんありますが、とりあえずこんなところで…。ご意見何卒宜しくお願い致します。

女性の「えへへ♪」という無邪気な笑い方の効用について。

 世間一般の常識では到底許されないことをしでかしても、その人が人並み外れた魅力や個性をもっていると、その言動が『…さんだから仕方ない』のような雰囲気に後押しされ、ときに容認されてしまう現象が発生します。
 むしろその理によって予想できない子供のような可愛らしさが、通常欠点としてあるいは愚行として映るはずのものを、美しく爽やかに演出してしまうのです。
 私を含めた世俗の凡庸な人間が、そういった誰でも味方に付けてしまうような純粋さを心身ともに大人の状態で手に入れるには、隠し切れない人間性の本質を矯正せねばなりません。
 それがもっとも垣間見えるのが笑い方です。笑い方には、育ち、性格、品性、知力、感情の振幅などほとんどのものが自然と露呈してしまいます。
 私が思うに、最も無邪気な笑い方は『えへへ』です。あははでも、うふふでも、おほほでもなく、『えへへ』が女性の魅力的な笑い方の頂点であると信じます。

 …以上を踏まえたうえで質問です。
 ここに、あなたがもっとも大切な異性Aがいます。Aが次のような行動をしでかした場合、あなたは許せますか?
 どうしても許せない場合はそれでもいいですが、その場合えへへに変わるストレス軽減策を教えてください。
 なお、A自身の人間的欠陥の改善は期待できないものとします。

 ①私が仕事に行ってる間、新聞(読売、朝日、毎日、産経などほぼ全社)、乳製品(ヨーグルト、ヤクルトなど多数)など私に断りなく多数契約。それも一ヶ月のお試しなどではなく、すべて年単位の長期契約である。もはや契約取消の期間は過ぎ、すべてが後の祭りの状態になっている。これもすべてことが露見するのを恐れたAがギリギリまで自身の失態を隠ぺいしたせいである。私に何の相談もなく無駄な買い物をしたA、それだけでなく爾後速やかに私に報告しなかったAに、私は内心立腹したが、それをあえて隠し、なぜこのような結果に至ったのかを冷静に問いただした。するとAは満面の笑顔でこう釈明した。
 「ごめんね…どうしても断りきれなかったの。うちから契約取れなかったらクビになるって言われて何だか可哀想になっちゃって…。でもすごくいい人そうな人ばっかりだったし、きっと私いいことしたよね、えへへ♪」

一体何が楽しいんだろうね~刹那の呪詛短編集~

 中古の軽自動車に乗って粋がるバカ。それで、まるでベンツにでも乗ってるみたいに周りが気使うとでも思ってんのかね。せいぜいクソを踏まないように車線変えるだけなのに。

 

 運転がクソ下手くそなくせに、我先へと前に出て後ろを待たせるバカ。車だけに限らず、勉強でも、仕事でもなんでもそう。バカなくせに目立ちたがったり、できもしないくせになぜかやりたがるバカ。自分を知れと言いたい。

 

 

 犬や猫を大量に飼育し、孤独を紛らわす誰も友達がいないバカ。動物を飼うのは個人の勝手だが、面倒見きれないくせに手当たり次第に飼って、その結果糞だの騒音だの周辺住民に迷惑をかける存在そのものが廃棄物のバカ。そんなに動物に癒し求めるなら動物園で働いてろ。お前自身も頭が獣レベルなんだからよ。

 

 

 

 

他人に助けを求めるという滑稽

 人間が生きていくうえで遭遇する悩みはたいてい以下の3種類に大別できます。

 

①金、仕事上の問題

②健康上の問題

③家庭、友人、会社など人間関係から生じる問題

 

 人によって味わう苦労の性質や時期は様々ですが、多くの人がより深刻に大騒ぎするのが健康問題でしょう。なぜなら、健康を失えばそれはイコール働けない、失職。そして死につながっていくからです。

 

 

 そう、どんな不幸の最中にあっても、究極を言えば生きてるだけまだマシなんです。

 もっとも『死』を最悪の事態、もっとも避けるべき結果と仮定した場合の価値観なので、精神的な死、生き地獄的な人生こそ最優先で回避するべきと考える人からしたら若干的外れに感じるかもしれません。

 

 

 しかし、どんな悩みを抱えていようと、自分の人生に生じた問題は自分で解決せねばなりません。他人に理解や助力を求めるなど滑稽以外の何物でもありません。

 なぜなら、その助けを求められた彼もしくは彼女も何かしらの悩みは抱えているはずで、にもかかわらずそれを無視し、一方的に私可哀想なんです、力を貸してください、と暗示することは、アンタは楽な人生でいいよね、という傲慢に他ならないからです。

 

 所詮、人間に他人を救うことなどできません。せいぜい支えたり、理解するふりをするのが関の山です。

 

 障碍者の方を例にとった場合、認定や保護を受けられるだけまだマシです。そもそも健常者に理解されたいという発想が甘えです。むしろ、見返してやるくらいの気持ちでいないと社会的に黙殺されて終わりでしょう。

 大多数の人間は自分が関わりない事象や弱者に関心持つほど高尚ではないのです。

 人間が他人の人生に興味を持つときは、利用価値があるとき(金持ちや美男美女の話を積極的に聞いたりするのがこれに該当)、自分より不幸な奴がいるんだと相対的幸福を満たし笑い話にするとき、善人ぶってイメージ戦略を図るとき、自分も似たような辛い経験があるとき。例外なくこのどれかです。

 他人の善意を信じ、理解してください、助けてくださいなんて同情乞食みたいなことやるのは女性だけです。男でこれやったら失笑買って終わります。

 そもそも、同情されて嬉しい、という前提に疑問があります。「可哀想に…」「ざまあwww」ってやる人たちは表面上正反対ですが、内心バカにして嗤ってる点では同じ穴の貉です。

 悔しかったら強くなって見返せ、それができなきゃ死んじまえ(諦めろ)。これがこの世、特に男の世界では、暗黙にして絶対の法則でしょう。

 それから、よく不幸自慢する人がいますが、だからなんだ?って話です。その不幸を苦労しながらも克服したなら称讃に値しますが、そうでないならただ運が悪いというだけで、特筆することは何もありません。

 

 惨めに、執拗に、妬ましく、絶えることのない愚痴や不満や恨み節をほざきつらね、それでいてまったく努力しないのならば、いっそ死んでしまえと言いたくなります。他人に迷惑かけることだけが存在意義ならば、生きる意味はありません。

最醜兵器オヤ児VSタダマン女神

 夕方、自室にて無為に時間を過ごしていた。今日一日は何の変哲もない平凡で平和な日ではあったけれども、今日という日は、この瞬間は、もう二度とやってこないんだ…そんな子供じみた感傷に浸っていた。

 すると―。

「しゃぶれや!」

 隣家から舞台役者の決め台詞あるいは獣の咆哮のような周囲の雑音を一瞬で吹き飛ばす、けたたましい罵声が私の部屋まで轟き―。

 繊細な時間は、突然の言葉の暴力により為す術もなく世界の最果てまで飛んでいった。

 「また始まったよ…」

 思わずそう呟く。ここにその近隣住民について、その詳細と私の私見を詳らかに書き連ねることは容易いが、あまりにバカバカしいのでそれは差し控える。

 もう10年以上続いていることだが、当初私が子供のとき、ことに受験生だった時分はあまりの迷惑行為に毎日彼らの死を祈願していたが、大人に成った今ではその有り余るリビドーはある種尊敬の的である。

 

 

 『人間何かに一生懸命になること、必死に生きることは素晴らしいことだ』

 そういう生き方、人生に対する姿勢は普遍的に他者に感動や勇気を与えるものだ。

 たまに野球とかダンスとか吹奏楽とか勉強とか何かしらに必死に打ち込んでる中高生の姿をニュースで目にすることがある。

 そういった学生たちを指導する人間は必ずと言っていいほど、執拗に罵声を浴びせる。子供たちを育てるために、人生の正念場で勝たせてやるために。

 

 隣人もきっとそうなんだ―。私はそうやって現実を逃避し、数年間正しい認識を避けてきた。神経疾患の一歩手前である。

 しかし今では笑える余裕がある。

 この滑稽な様を想像してみるがいい。いい歳した大の大人が射精のために激怒!女性を意のままに操りたい一心で激昂!こともあろうに親子ほども歳の離れた少女に!

 セックスしたいために、よく女性に土下座して頼み込む人がいるが、それ以上の背水の陣を感じた。

 

「そんなにヤリたきゃヤラしてやるよ!」

 ブラインド越しに見えた。脱ぎたてのパンティを、まるでダチョウ倶楽部の上島竜兵さんみたいに叩きつける少女。違うのは顔の悲愴感だけ。

 

 皆さんは何か自分が夢中になれるもの、なりふり構わず取り組めるものを持っていますか?

友達契約、賃貸カノジョ

 欲しいもの、あるいは自分にとって必要なもの、本来は努力して手に入れるべきそれらを金の力で手に入れる。

 食事でいうサプリメント、戦争でいう傭兵、仕事でいうアルバイトのような、一時しのぎで耐え忍ぶ。

 友達契約。そんな言葉を耳にした。友達って何だろう。お互い親しげに振る舞っていれば、頻繁に一緒に遊んでれば友達?そもそも友達という人間関係は契約できる性質のものなの? 

 契約という以上、当事者の合意に基づいて契約者に一定の債務を課すのだろうが、相手に何を要求するんだろう。

 愛人契約のように実際、セックス契約と置換可能なわけでもないし、SPのように身辺警護するわけでもない。

 

……。

 

 大体、自分が友達だと思っていても相手はそう思っていないこともあるし、その逆もいくらでもある。友達の成立要件は、お互いにとって有益な関係を長期的に築けているかどうかじゃね。

 一方的な利用価値。主人と使用人の関係は友達ではなく…たとえば上司と部下がどんなに仲良さそうにしていたとしても、所詮は力関係によって生じた役割を相互にこなしているだけ。

 

 セックスフレンド、賃貸カノジョ。有償無償の差があるだけで、その実質は大差ない。世人の求むは一時の悦楽、外形上のステータスばかりなり。