愛という名の支配

感覚は理性を駆逐する。憎悪は執念へと昇華する。

専守防衛の行方

 専守防衛―。憲法に平和主義を掲げる我が国の基本的な軍事方針です。

 自ら積極的に武力行使しない。他国が攻め込んできた場合のみ必要最低限の威嚇、迎撃をもってこれを追い払う。それも、十分過ぎるほどの警告を行ったうえで。

 日本というのは現在そういう国家です。良く言えば戦争回避を最優先に据えた人命を尊ぶ国家ですが、悪く言えば他国の横暴に対し何もできず、アメリカ頼みの舐められ国家です。

 私が小学生の時分から感じていた違和感として、この専守防衛という外敵に対する方策の方向性は現実に即しているのか?というものがあります。

 単なる理想論ではないのか。すなわち、対話できない相手や何度いなしても反省せず暴挙を繰り返す輩には意味がないのではないか?不正に目をつぶった平和に価値があるのか?という疑問です。

 

 少し次元を落として考えてみます。

 

 昔、奈良で騒音おばさんという事件がありました。中年の女性が近隣の住民に対しあらゆる手法を用いて恒常的に騒音をまき散らし、その結果住民は心療内科に通ったり、窓を二重冊子にするなどの対策を講じるハメになりました。

 …あの事件の顛末は実は加害者の方が組織的に被害者側からいじめられており、加害者側が逆ギレして発生した事態などと言われていますが、そのへんの真実は見方によって様々な解釈が可能なので、結果的な事情はここでは置いておきます。

 私が言いたいのは、他人が自分に対し不法行為を仕掛けてきた場合、それがどれほど理不尽に思えるものでも、自身にも非はないか日頃の習慣を省みて、改めるべきは改め、和解の意思をもって、正論を用いて抗弁する。それがかつての日本人でした。

和をもって貴しとなす―まさしく専守防衛の精神です。

 

 しかし、そんな綺麗事、性善説に基づいた道徳論は現実には通用しません。そもそも道理が通用する常識人なら初めからそういった不法行為を平気でやってのけるはずがないのです。

 ほとんどの日本人はとかく外交能力が低く、こういった敵に遭遇した場合、往々にして我慢するか、屈服するか、無視するかの三パターンです。現在放送中の半沢直樹などのドラマに深く共鳴される方は間違いなくこれらのタイプに潜在的に属するでしょう。

 そして、我慢に我慢を重ねた結果、最終的に爆発するかその対象から逃げるかになります。

 すなわち、これが専守防衛の最終着地点です。

 

 皆さん、この結果をどう思いますか?

 私はけして和平の精神を否定する気はありません。

 いじめ被害を過剰に恐れる昨今の小中学生とその親のように、常に録音機を携帯し、表面上大人しい羊を気取っておいて、いざ不利益を被った際は、日ごろから保全してある証拠をもとに颯爽と関係者を糾弾し、被害者最強を謳う―。常に周囲を仮想の敵とみなしているような生き方が良いとも思えません。

 

 皆さんはどうお考えでしょうか?

24時間テレビの是非

 毎年24時間テレビが始まると、ネット上のいたるところで次の2通りの声が聞こえてくる。

 

24時間テレビは―

①どんな困難も皆で支え合えば乗り越えられる、また頑張る勇気をもらえる番組

②芸能人と身体障害者をだしに使った偽善番組、茶番組

 

 すなわち、人によって賛否がはっきり分かれる。それが24時間テレビだと思う。物事には何でも裏と表があるし、人の主義主張もまたそれぞれだが、これほど明確に解釈が分かれるものはないと思う。

 私はどちらの側でもないし、よって一方の見解を良しとする気も無ければ、もう一方を非難する気もない。私もかつては②に属していた時期もあったし、母親等の影響で①に属していた時期もあった。双方に理があると思う。だが、なぜここまで世の人々の価値観が真っ二つに分かれるのか、それを分析してみたいと思う。

 まず、①に属する人はたいてい今、自分を幸せだと感じている人で誰かを助けるだけの精神的経済的余力がある人。また、自分や家族、恋人などが深刻な病気や障害を抱えている、あるいは過去抱えていた人だと思う。そうでない場合は、博愛精神に満ちた善人、あるいはまた他者に善人として見られたい願望を多分に持ち合わせた打算屋さんだろう。

 

……。

 

 ここまで、書くと②は①の余事象。①に属さない人というわけだから、おのずと逆、すなわち「現在不幸で、他人を助けるだけの精神的経済的余力が無い人。または健康で、自分さえよければ良いという冷たい人で、他人の苦労や不幸には一切興味が無く、騒ぐのは自分がそうなったときだけ」という方々の集団ということになる。

 では、②は人間的に低レベルな人たちが抱く心証なのだからことさら耳を傾けるまでもない戯言で、無視するべきなのかというと、そうでもない。

 彼らの言い分を要約すると、たいていこの2つの主張にまとめられる。

Ⅰ愛は地球を救うと言っておきながら、障碍者と芸能人使って金集めてるだけ。わざわざテレビでやる意味が分からない。

身体障害者のひたむきな努力を映して同情を誘うが、世の中には身体障害以外で苦労している人もたくさんいる。たとえば、精神障害や人間関係等。身体障害者だけをある種特別な、苦労の象徴のように扱う日本は遅れている。そもそも身体障害は可哀想なことなのか?

 

 Ⅰ、Ⅱの主張いずれも、その非難の裏には声なき声。「俺だって苦労してんのに―」という不満が聞こえてくる感は否めない。

 皆さんはどうお考えだろうか? 

  

賞味期限が三週間過ぎたクリームパン

…を誤って本日食してしまいました。

なんか味にげえなあと思っていたのですが、食えないことはなかったのでそのまま咀嚼し、嚥下。

しかし、半分くらい食べたあたりで苦みが舌の痺れに変わってきたのでパッケージの日付確認。

そしたら三週間切れてました。

 

ふう…。

 

初めは何でこんなもんいつまでもとっとくんだよ、という八あたり的なムカつきの気持ちも生まれました。

しかしそれ以上に何か体の調子悪くならないかなあと心配になり、友達にメール。

 

すると…。

 

「そんなの気の持ちようだから全然平気だよ。アタシなんて男の人の汚いミルク毎日飲んでるし」などという下品な回答が返ってきた。

まあ、でも一理あるかな…好きな人のなら喜んで飲めるんでしょうね、きっと。