愛という名の支配

感覚は理性を駆逐する。憎悪は執念へと昇華する。

他人に助けを求めるという滑稽

 人間が生きていくうえで遭遇する悩みはたいてい以下の3種類に大別できます。

 

①金、仕事上の問題

②健康上の問題

③家庭、友人、会社など人間関係から生じる問題

 

 人によって味わう苦労の性質や時期は様々ですが、多くの人がより深刻に大騒ぎするのが健康問題でしょう。なぜなら、健康を失えばそれはイコール働けない、失職。そして死につながっていくからです。

 

 

 そう、どんな不幸の最中にあっても、究極を言えば生きてるだけまだマシなんです。

 もっとも『死』を最悪の事態、もっとも避けるべき結果と仮定した場合の価値観なので、精神的な死、生き地獄的な人生こそ最優先で回避するべきと考える人からしたら若干的外れに感じるかもしれません。

 

 

 しかし、どんな悩みを抱えていようと、自分の人生に生じた問題は自分で解決せねばなりません。他人に理解や助力を求めるなど滑稽以外の何物でもありません。

 なぜなら、その助けを求められた彼もしくは彼女も何かしらの悩みは抱えているはずで、にもかかわらずそれを無視し、一方的に私可哀想なんです、力を貸してください、と暗示することは、アンタは楽な人生でいいよね、という傲慢に他ならないからです。

 

 所詮、人間に他人を救うことなどできません。せいぜい支えたり、理解するふりをするのが関の山です。

 

 障碍者の方を例にとった場合、認定や保護を受けられるだけまだマシです。そもそも健常者に理解されたいという発想が甘えです。むしろ、見返してやるくらいの気持ちでいないと社会的に黙殺されて終わりでしょう。

 大多数の人間は自分が関わりない事象や弱者に関心持つほど高尚ではないのです。

 人間が他人の人生に興味を持つときは、利用価値があるとき(金持ちや美男美女の話を積極的に聞いたりするのがこれに該当)、自分より不幸な奴がいるんだと相対的幸福を満たし笑い話にするとき、善人ぶってイメージ戦略を図るとき、自分も似たような辛い経験があるとき。例外なくこのどれかです。

 他人の善意を信じ、理解してください、助けてくださいなんて同情乞食みたいなことやるのは女性だけです。男でこれやったら失笑買って終わります。

 そもそも、同情されて嬉しい、という前提に疑問があります。「可哀想に…」「ざまあwww」ってやる人たちは表面上正反対ですが、内心バカにして嗤ってる点では同じ穴の貉です。

 悔しかったら強くなって見返せ、それができなきゃ死んじまえ(諦めろ)。これがこの世、特に男の世界では、暗黙にして絶対の法則でしょう。

 それから、よく不幸自慢する人がいますが、だからなんだ?って話です。その不幸を苦労しながらも克服したなら称讃に値しますが、そうでないならただ運が悪いというだけで、特筆することは何もありません。

 

 惨めに、執拗に、妬ましく、絶えることのない愚痴や不満や恨み節をほざきつらね、それでいてまったく努力しないのならば、いっそ死んでしまえと言いたくなります。他人に迷惑かけることだけが存在意義ならば、生きる意味はありません。