愛という名の支配

感覚は理性を駆逐する。憎悪は執念へと昇華する。

24時間テレビの是非

 毎年24時間テレビが始まると、ネット上のいたるところで次の2通りの声が聞こえてくる。

 

24時間テレビは―

①どんな困難も皆で支え合えば乗り越えられる、また頑張る勇気をもらえる番組

②芸能人と身体障害者をだしに使った偽善番組、茶番組

 

 すなわち、人によって賛否がはっきり分かれる。それが24時間テレビだと思う。物事には何でも裏と表があるし、人の主義主張もまたそれぞれだが、これほど明確に解釈が分かれるものはないと思う。

 私はどちらの側でもないし、よって一方の見解を良しとする気も無ければ、もう一方を非難する気もない。私もかつては②に属していた時期もあったし、母親等の影響で①に属していた時期もあった。双方に理があると思う。だが、なぜここまで世の人々の価値観が真っ二つに分かれるのか、それを分析してみたいと思う。

 まず、①に属する人はたいてい今、自分を幸せだと感じている人で誰かを助けるだけの精神的経済的余力がある人。また、自分や家族、恋人などが深刻な病気や障害を抱えている、あるいは過去抱えていた人だと思う。そうでない場合は、博愛精神に満ちた善人、あるいはまた他者に善人として見られたい願望を多分に持ち合わせた打算屋さんだろう。

 

……。

 

 ここまで、書くと②は①の余事象。①に属さない人というわけだから、おのずと逆、すなわち「現在不幸で、他人を助けるだけの精神的経済的余力が無い人。または健康で、自分さえよければ良いという冷たい人で、他人の苦労や不幸には一切興味が無く、騒ぐのは自分がそうなったときだけ」という方々の集団ということになる。

 では、②は人間的に低レベルな人たちが抱く心証なのだからことさら耳を傾けるまでもない戯言で、無視するべきなのかというと、そうでもない。

 彼らの言い分を要約すると、たいていこの2つの主張にまとめられる。

Ⅰ愛は地球を救うと言っておきながら、障碍者と芸能人使って金集めてるだけ。わざわざテレビでやる意味が分からない。

身体障害者のひたむきな努力を映して同情を誘うが、世の中には身体障害以外で苦労している人もたくさんいる。たとえば、精神障害や人間関係等。身体障害者だけをある種特別な、苦労の象徴のように扱う日本は遅れている。そもそも身体障害は可哀想なことなのか?

 

 Ⅰ、Ⅱの主張いずれも、その非難の裏には声なき声。「俺だって苦労してんのに―」という不満が聞こえてくる感は否めない。

 皆さんはどうお考えだろうか?